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相手にナイフや銃を向ける前に、
少しだけ、この間したセックスについて思いを巡らせてみよう。
そのとき少しだけ感じた快楽、皮膚に感じた温度を思い出してみよう。
思い出せないときには、その手を降ろして、
快楽を求めに街に出かけよう。ぼくが待っている。
「売男日記」ハスラー・アキラ
…ちょっとカッコよすぎやしないかい?
でもアキラくんなら、それも許せる。
世界中の人がみんなセックスに不自由しなかったとしたら、きっといがみあったり絶望したりなんかしないだろう。セックスは世界を救う。セックスは命を救う。
キモチいいセックスをすることは、人生の大きなテーマだ。生きる意味ですらある。
生きるエネルギーの根源みたいなところに性欲があるとしたら、満たされないから怒る、満たされないから憎む。十分キモチいいセックスをしていたら、そんな感情はどこかへ消えて無くなるだろう。
キモチいいセックスをすることは別に、モテ筋に生まれた人の特権なんかじゃない。見た目がいいからといって理想の恋人にめぐりあえるとは限らないし。
僕はSMもフィストもコスプレもちょっとしたスカトロもいろいろ経験したけど(ヤッてないのは女装プレイだけ)、僕にとっていちばんキモチいいセックスは「本当に好きな人とするセックス」だと、ある時悟ってしまった。それからが僕の不幸な”恋”中毒の始まりだったりするのだが。
初めてまともにセックスした時(もちろん男性と)、それは当時年増の処女のように貞操観念に縛られていた僕がやっとOKを出してつきあうことになった相手との「初夜」だったのだが、僕は恥ずかしいけど、指1本触れられてないのに、イッてしまった。
そしてしばらく、つきあってる人としかセックスしない時期が続いたが、今考えると、とてももったいないと思う。セックスなんて、それ自体は大した意味を持たないのにね。
純粋な快楽としてのセックスを初めて体験したのは、リーマンになってからのことだ。
初めてヤリ部屋というものに行った時の衝撃は今でも忘れられない。そこにいる人がみんな裸でうろうろしていて、その光景の中にいるだけでビンビンになっていた。何回ヤッたか憶えていないくらいヤッた。
それから何年かは、もう、スポーツのようにセックスしたし、ヤリ部屋が楽しくて仕方が無かった。多い時は週に2〜3回通った。何かに取り憑かれたように…。それも、ある人と出会うまでの話だが。
僕は以前、セックスには2つのテーマしか無いと書いた。1つは、いかにキモチよくするか、そして、いかにセーフにするか。
それはある意味確信犯的に書いたことだ。「愛とセックスは別」と言いたいがために。
基本的には今でもそれは間違っていないと思う。自由でいいのだ。
自由は認めたうえで、感情がどこまで自由を許せるかという個々の問題に向き合わなくてはいけない。恋愛感情はそう簡単に割り切れるものではないし、人によって驚くほど恋愛観に差があることもわかるから、まず初めに、お互いのコンセンサスを得ることがとても重要なんだと、今では思う。
コミュニケーション能力と、想像力、信じる力、忍耐力。恋にはとても力がいる。
それに比べて、セックスはなんて簡単なんだろう。単純明快で、一目瞭然で、すぐに結果が得られる。いいなあ、好きだなあ。
最近年のせいか、あまり無理がきかなくなったけど、体力の続く限り、がんばるぞ、セックス。健康のためにも(笑)