チョコレット・オーガズム
ヒカルには清涼効果があるらしい。
数日前までは、西向きの大きな窓から射しこんでくる陽射しがどうにも暑苦しくて、午後になると足を踏み入れる気にも
なれなかったリビングルームに、ヒカルがいるという、ただそれだけで、不思議と真夏の鬱陶しさがきれいさっぱり解消
したのだ。
というのが、マユキの思い過ごしだとしても、少なくとも、午後の陽射しは、ぎらぎらからきらきらに変貌した。そんな
気がした。
だから、ヒカルがここに来たことは、結局はよかったんだ。暑気払いよ、ありがとう。とマユキは思うことにした。
そうでも思わないことにはやりきれない。
マユキは、子どもの頃からずっとヒカルのことを知っている。同じ町内に住んでいたから、幼稚園も小学校も中学校も一緒で、
高校も同じ女子高に通った。クラスが一緒になったことすらあった。それでいて、マユキは、ヒカルを身近に感じたことは一度
としてない。彼女は、いつも、遥か彼方、おそろしく遠いところに超然としていたものだ。そして、たとえ座席が隣り合わせに
なっても、その距離はいっこうに縮まらなかった。
マユキは今でも覚えている。
掃除当番の日、モップで床を拭いていたら、長い髪ときついくらいのシャンプーの香りが鼻先を掠めた。ふと顔を上げると、
背筋をしゃんと伸ばしたヒカルが学生カバンを手に行き過ぎるところだった。ちょっと掃除はどうすんのよ、と声をかけると、
彼女は細い上半身を三十度ほど横に傾げ、そのとき長い髪がスローモーションのように鮮明に重力にしたがって揺れて
彼女の片頬と顎をおおったけれど、その髪をはらうこともせず、涼しい声で言ったのだ。
お先に。
それから、高校の卒業式の日も、ヒカルは在校生に見送られて校門をくぐるという儀式をすっとばして、さっさとひとり裏門から
帰ってしまった。下駄箱のわきで黒いローファーに履きかえて、古い上履きは簀子の上に履き捨てたまま、彼女は卒業証書の
入った筒だけを握って、誰にともなく、おそらく、その場にいた──甘ったるい感傷に溺れて見苦しい泣きべそ顔を子どもっぽい
イラストつきのハンカチでゴシゴシ拭っている──皆に向かって、お先に、とだけ言うと、ほとんどスキップでもしているような
軽やかな足取りで、振り向きもせず去って行ってしまったのだ。マユキは、その後ろ姿をぼんやりと見送りながら、赤いラインが
二本入ったセーラー服の大きな襟がヒカルの動きに合わせて上下にふわふわ揺れて長い髪の間から見え隠れするのを、
ひどく春めいている、と思って眺めたものだ。
そうして、門のところでは、いつも誰かがヒカルを待っているらしかった。
オトコよ、オトコ、しょっちゅうオトコがかわんのよ、と運動も勉強もできるクラスのリーダー格の女の子が顔をしかめて言って
いたことがある。その他大勢の女の子たちは、心なし眉を吊り上げて、きゃあー、と叫んだ。
田舎の女子高だったのである。
けれど、ヒカルがそんなふうにはしゃいだり黄色い声を上げるのを、マユキはついぞ見たことがなかった。彼女はいつも
大人っぽかった。少なくとも、当時、マユキは、女の子同士でつるんでケーキ屋になだれこむことより、他校の男子生徒と
ふたりきりでさっさとどこかに行ってしまう方を好む──もっと正確に言えば、そういった機会に恵まれる──ヒカルの、笑っても
目が線になったり、鼻がひしゃげたり、口元がだらしなく、もしくは悪魔的にぱっくり開いたりしない端整なつつましやかな
顔だち──それは鏡の前で何千回も綺麗に笑う練習をした成果だったのかもしれないのだが──と、トイレにはさりげなく
ひとりで行き、決して手を拭き拭き廊下を歩いたりしない孤高な姿を、大人っぽいというより他に形容する言葉を知らなかった。
そうして、セーラー服の大きな襟に赤いスカーフを結んでいた頃から十年近く経ってしまった今、海を越えて遥々アメリカ
くんだりまでやってきたヒカルは、もはや〈大人っぽい〉という感じではなく、実際の年齢よりむしろ若く見えるくらいだったが、
決して〈子どもっぽい〉ということでもなくて、マユキは、それを、いさぎよくスカートを脱ぐたびに〈らしさ〉も一緒くたにして脱ぎ
捨てて、足下でもみくちゃにしてきたヒカルの功徳の結果なのだ、ということに、後になってから気がつくことになる。
西陽の射しこむ窓辺にもたれフローリングの床にぺたんと腰をおろして、ヒカルは光の中でせっせとマニキュアを塗る。
それがシャワーを浴びた後の彼女の日課なのだ。
どこで仕入れてきたのか、くるぶしにかかるくらいの丈の長い、生成りの木綿の少女主義的部屋着(もちろんレースとリボン
つき)を華奢なからだに纏い、毎日欠かさずワカメを食べて丁寧なブラッシングで鍛えあげた長い髪は、まっすぐでつやつやと
輝いている。
それはラパンゼルを思わせる。
ラパンゼル、ラパンゼル、貴女の髪をここまでおろしてごらん。
王子は、魔女によって塔の小部屋に幽閉されてしまったラパンゼルの長い髪をつたって塔によじ登り、彼女と逢瀬を重ねる。
長い魅惑的な髪に釣り上げられた幸福な王子さまの御伽噺である。
めでたし。めでたし。
ラパンゼルの髪は金髪だったけれど、ヒカルも、王子さまを釣り上げるにたる丈夫な髪を持っているという点では、和製
ラパンゼルの名にふさわしかった。
実際、ヒカルは空港で、迎えに来ていたマユキの顔を見るなり言ったものだ。
「あたし、おムコを捜しに来ました」
「何それ?」
マユキが驚いて訊ねると、ヒカルはすまして言った。
「ここで結婚相手を見つけたいの。うちの姉がね、素敵な男のひととの出会いを望むなら、アメリカの名門大学が狙いめだって
言うのよ」
「ふぅん、国際結婚がしたいの?」
マユキは気のない調子で訊ねた。
「ううん、違う。姉が言ってるのは、ニッポン人よ。アメリカの大学に留学してきてるニッポンの殿方ね、それを狙えって」
(…この続きは本書にてどうぞ)
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